
調査機関は10月1日から11月28日の2か月、調査場所は馬蹄形の南貝塚の中央部(896㎡)の発掘の現地説明会に参加した。
晴天に恵まれ、参加者は大勢で、コロナ禍対策で消毒・検温後、申込のグループ30人を更に10人づつグループに分けて貝層・住居箇所の3か所の説明をうけた。

縄文春・秋まつりがコロナ禍で中止されたなか、11月3日加曽利貝塚文化祭(主催:加曽利貝塚博物館)が開催され体験学習、学芸員によるステージイベント等々実施された。
友の会は、例年人気の土偶マグネット工作、縄文かるた会は参加者と密接になることで中止、感染防止対策を要望された物販販売を実施!
今回より新商品として「縄文かるた」を販売。

今回は、初めてバス利用による採取会を実施し、例年の採取会場と異なる
木更津市金田見立海岸潮干狩り場より入場した。
生憎雨のため、潮の引き具合が悪く例年よりイボキサゴの採取量は少ないものの
潮干狩りも出来て参加者は喜んで岐路に着きました。
5月4日、5日の縄文まつりでは天候に恵まれ、多くの来場者でにぎわいました。当会の活動である土偶マグネット工作は4日438人、5日331人(計769人)。かるた会は4日25人、5日38人(計63人 こどものみ)と盛況。たくさんの参加者、ありがとうございました。
千葉市の社会教育の発展に尽力した団体として、当会が感謝状をいただきました!
11月1日、当会が千葉県教育委員会から文化財の保護の功績により、表彰されました。
秋の著名な遺跡巡りの旅
10月24日(水)恒例の友の会バス旅行“著名な遺跡巡り”が実施されました。
7時、総勢47名加曾利貝塚を出発し、千葉駅経由中央高速道を通り、先ず釈迦堂遺跡を
訪問しました。途中若干の渋滞もありましたが、10時15分同遺跡のあるSAに到着し
、見学に入りました。急坂の上の比較的小型の資料館ですが、先ず「水煙文土器」「人体
文土器」を始め極めて大型の各種異形土器に圧倒されました。学芸員の方からの詳しい説
明もありましたが、この博物館では、1200個体の土器を復元しており、縄文遺跡の中
でも全国有数の土器量とのことです。次いで、出土した多くの土偶(1116体)も拝見
し、その数が多いことと色々な形態のあることに驚きました。
11時20分釈迦堂SAを出て、諏訪西I経由12時25分尖石縄文考古館に到着しま
した。快晴の下、すがすがしい秋晴れの公園で食事をとり、13時から、学芸員の詳細な
説明がありました。国宝の2体の土偶は今パリに出張中とのことは残念でしたが、寸分た
がわぬレプリカは、見るものを圧倒していました。八ヶ岳山麓の膨大な縄文遺跡からの出
土した遺物を集めた同館のポテンシャルは、我々にとって極めて参考になるものでした。
又、同館内のレイアウト、設備等もさすが“縄文遺跡関連の特別遺跡第1号”のことと感じ
ました。13時20分同館を出発し、帰途につき18時半加曾利博物館に到着致しました
。
車中、同道していただいた、加曾利博物館米倉学芸員から午前中、「今日見学の2つの
縄文遺跡について」並びに「最近の加曾利博物館の状況について」の丁寧なレクチュアが
ありました。加えて、帰りのバスの中では、“貝塚サロン”さながらの勉強会を開催するこ
とが出来、感謝申し上げたいと思います。ほとんどの方々が高齢者でしたが、何事もなく
皆さん元気に見学を終了することが出来ました。 (武 孝夫記)
▼写真をクリックすると、拡大します。
NPO法人加曽利貝塚博物館友の会では、9月26日に奥松島縄文村歴史資料館の館長菅原弘樹氏をむかえ、「松島湾の貝塚」をテーマに中期防講演会を千葉市生涯学習センターで開催しました。
▼聴講者の感想
奥松島縄文村歴史資料館・菅原弘樹館長の講演を聞いて
9月26日開催の“友の会フォーラム”で、「松島湾の貝塚―里浜貝塚からみた縄文人の暮らしー」と題する大変興味あるご講演をお聞きすることが出来た。東北の海岸の松島湾に巨大な貝塚がある事は存じていたが、関東地区の東京湾の貝塚群並びに海岸奥に位置する巨大加曾利貝塚との違いがどんなものであるのか対比しながら大変興味のある話であった。
先ず、松島湾のある宮城県が、千葉県、茨城県に次いで216か所の貝塚があり、又松島湾沿岸には3つの大きな貝塚郡があり、縄文時代それぞれに巨大なムラを形成していたという。その中でも、里浜貝塚中心とする“宮戸島貝塚群”は、縄文時代前期から弥生時代中期にかけて存在していた。縄文人は里浜貝塚内の3つの貝塚、西貝塚(6800~4800年前及び4500~2800年前)、東貝塚(5100~3700年前)、北貝塚(3600~2000年前)を移り住みながら、5000年もの間存在していた縄文時代屈指の遺跡と言えよう。この地域は大変住みやすい環境であったのだろう。
里浜貝塚居住の縄文人の食生活に関し詳しい説明があった。加曾利貝塚と共有していることは、海岸沿いに生活し、背後に小高い台地があることから、魚介類と貝の採取に恵まれていたことと、四季折々の新鮮な各種植物利用が可能であったこと、冬場の動物捕獲等によるバランスの取れた食生活が可能であったことである。
異なるのは、採取した貝が加曾利の“小さな巻貝であるエボキサゴ”に対し、比較的大きい貝(岩礁から取るスガイから砂地のアサリに代わっているが)であり、交易にも使用していたことである。更に、貝塚形状に大きな差異があることである。又、極海岸に近いので交易対象の製塩も行っていたという。
今後、貝塚にまつわる研究内容の進展・交流が行われることにより、縄文時代の中身の解明がより進行することを期待したい。
菅原館長は、災害履歴、特に津波についても大きく言及している。災害の歴史は、文字資料や伝承だけではなく、考古学や地形学による研究成果、即ち土地に刻まれた痕跡からも知ることが出来ると述べている。大変興味のあることである。この宮古島では、概ね400年~500年に1回の周期で津波が確認されているという。関東地区の状況についてもこのような地域的な詳細な精度の高い情報が得られることを期待したいものである。
(武 孝夫記)

調査機関は10月1日から11月28日の2か月、調査場所は馬蹄形の南貝塚の中央部(896㎡)の発掘の現地説明会に参加した。
晴天に恵まれ、参加者は大勢で、コロナ禍対策で消毒・検温後、申込のグループ30人を更に10人づつグループに分けて貝層・住居箇所の3か所の説明をうけた。

縄文春・秋まつりがコロナ禍で中止されたなか、11月3日加曽利貝塚文化祭(主催:加曽利貝塚博物館)が開催され体験学習、学芸員によるステージイベント等々実施された。
友の会は、例年人気の土偶マグネット工作、縄文かるた会は参加者と密接になることで中止、感染防止対策を要望された物販販売を実施!
今回より新商品として「縄文かるた」を販売。

今回は、初めてバス利用による採取会を実施し、例年の採取会場と異なる
木更津市金田見立海岸潮干狩り場より入場した。
生憎雨のため、潮の引き具合が悪く例年よりイボキサゴの採取量は少ないものの
潮干狩りも出来て参加者は喜んで岐路に着きました。
5月4日、5日の縄文まつりでは天候に恵まれ、多くの来場者でにぎわいました。当会の活動である土偶マグネット工作は4日438人、5日331人(計769人)。かるた会は4日25人、5日38人(計63人 こどものみ)と盛況。たくさんの参加者、ありがとうございました。
千葉市の社会教育の発展に尽力した団体として、当会が感謝状をいただきました!
11月1日、当会が千葉県教育委員会から文化財の保護の功績により、表彰されました。
秋の著名な遺跡巡りの旅
10月24日(水)恒例の友の会バス旅行“著名な遺跡巡り”が実施されました。
7時、総勢47名加曾利貝塚を出発し、千葉駅経由中央高速道を通り、先ず釈迦堂遺跡を
訪問しました。途中若干の渋滞もありましたが、10時15分同遺跡のあるSAに到着し
、見学に入りました。急坂の上の比較的小型の資料館ですが、先ず「水煙文土器」「人体
文土器」を始め極めて大型の各種異形土器に圧倒されました。学芸員の方からの詳しい説
明もありましたが、この博物館では、1200個体の土器を復元しており、縄文遺跡の中
でも全国有数の土器量とのことです。次いで、出土した多くの土偶(1116体)も拝見
し、その数が多いことと色々な形態のあることに驚きました。
11時20分釈迦堂SAを出て、諏訪西I経由12時25分尖石縄文考古館に到着しま
した。快晴の下、すがすがしい秋晴れの公園で食事をとり、13時から、学芸員の詳細な
説明がありました。国宝の2体の土偶は今パリに出張中とのことは残念でしたが、寸分た
がわぬレプリカは、見るものを圧倒していました。八ヶ岳山麓の膨大な縄文遺跡からの出
土した遺物を集めた同館のポテンシャルは、我々にとって極めて参考になるものでした。
又、同館内のレイアウト、設備等もさすが“縄文遺跡関連の特別遺跡第1号”のことと感じ
ました。13時20分同館を出発し、帰途につき18時半加曾利博物館に到着致しました
。
車中、同道していただいた、加曾利博物館米倉学芸員から午前中、「今日見学の2つの
縄文遺跡について」並びに「最近の加曾利博物館の状況について」の丁寧なレクチュアが
ありました。加えて、帰りのバスの中では、“貝塚サロン”さながらの勉強会を開催するこ
とが出来、感謝申し上げたいと思います。ほとんどの方々が高齢者でしたが、何事もなく
皆さん元気に見学を終了することが出来ました。 (武 孝夫記)
▼写真をクリックすると、拡大します。
NPO法人加曽利貝塚博物館友の会では、9月26日に奥松島縄文村歴史資料館の館長菅原弘樹氏をむかえ、「松島湾の貝塚」をテーマに中期防講演会を千葉市生涯学習センターで開催しました。
▼聴講者の感想
奥松島縄文村歴史資料館・菅原弘樹館長の講演を聞いて
9月26日開催の“友の会フォーラム”で、「松島湾の貝塚―里浜貝塚からみた縄文人の暮らしー」と題する大変興味あるご講演をお聞きすることが出来た。東北の海岸の松島湾に巨大な貝塚がある事は存じていたが、関東地区の東京湾の貝塚群並びに海岸奥に位置する巨大加曾利貝塚との違いがどんなものであるのか対比しながら大変興味のある話であった。
先ず、松島湾のある宮城県が、千葉県、茨城県に次いで216か所の貝塚があり、又松島湾沿岸には3つの大きな貝塚郡があり、縄文時代それぞれに巨大なムラを形成していたという。その中でも、里浜貝塚中心とする“宮戸島貝塚群”は、縄文時代前期から弥生時代中期にかけて存在していた。縄文人は里浜貝塚内の3つの貝塚、西貝塚(6800~4800年前及び4500~2800年前)、東貝塚(5100~3700年前)、北貝塚(3600~2000年前)を移り住みながら、5000年もの間存在していた縄文時代屈指の遺跡と言えよう。この地域は大変住みやすい環境であったのだろう。
里浜貝塚居住の縄文人の食生活に関し詳しい説明があった。加曾利貝塚と共有していることは、海岸沿いに生活し、背後に小高い台地があることから、魚介類と貝の採取に恵まれていたことと、四季折々の新鮮な各種植物利用が可能であったこと、冬場の動物捕獲等によるバランスの取れた食生活が可能であったことである。
異なるのは、採取した貝が加曾利の“小さな巻貝であるエボキサゴ”に対し、比較的大きい貝(岩礁から取るスガイから砂地のアサリに代わっているが)であり、交易にも使用していたことである。更に、貝塚形状に大きな差異があることである。又、極海岸に近いので交易対象の製塩も行っていたという。
今後、貝塚にまつわる研究内容の進展・交流が行われることにより、縄文時代の中身の解明がより進行することを期待したい。
菅原館長は、災害履歴、特に津波についても大きく言及している。災害の歴史は、文字資料や伝承だけではなく、考古学や地形学による研究成果、即ち土地に刻まれた痕跡からも知ることが出来ると述べている。大変興味のあることである。この宮古島では、概ね400年~500年に1回の周期で津波が確認されているという。関東地区の状況についてもこのような地域的な詳細な精度の高い情報が得られることを期待したいものである。
(武 孝夫記)