2018.9.26  講演会「松島湾の貝塚」開催

NPO法人加曽利貝塚博物館友の会では、9月26日に奥松島縄文村歴史資料館の館長菅原弘樹氏をむかえ、「松島湾の貝塚」をテーマに中期防講演会を千葉市生涯学習センターで開催しました。

▼聴講者の感想

奥松島縄文村歴史資料館・菅原弘樹館長の講演を聞いて

 

 9月26日開催の“友の会フォーラム”で、「松島湾の貝塚―里浜貝塚からみた縄文人の暮らしー」と題する大変興味あるご講演をお聞きすることが出来た。東北の海岸の松島湾に巨大な貝塚がある事は存じていたが、関東地区の東京湾の貝塚群並びに海岸奥に位置する巨大加曾利貝塚との違いがどんなものであるのか対比しながら大変興味のある話であった。

 

 先ず、松島湾のある宮城県が、千葉県、茨城県に次いで216か所の貝塚があり、又松島湾沿岸には3つの大きな貝塚郡があり、縄文時代それぞれに巨大なムラを形成していたという。その中でも、里浜貝塚中心とする“宮戸島貝塚群”は、縄文時代前期から弥生時代中期にかけて存在していた。縄文人は里浜貝塚内の3つの貝塚、西貝塚(6800~4800年前及び4500~2800年前)、東貝塚(5100~3700年前)、北貝塚(3600~2000年前)を移り住みながら、5000年もの間存在していた縄文時代屈指の遺跡と言えよう。この地域は大変住みやすい環境であったのだろう。

 

 里浜貝塚居住の縄文人の食生活に関し詳しい説明があった。加曾利貝塚と共有していることは、海岸沿いに生活し、背後に小高い台地があることから、魚介類と貝の採取に恵まれていたことと、四季折々の新鮮な各種植物利用が可能であったこと、冬場の動物捕獲等によるバランスの取れた食生活が可能であったことである。

 異なるのは、採取した貝が加曾利の“小さな巻貝であるエボキサゴ”に対し、比較的大きい貝(岩礁から取るスガイから砂地のアサリに代わっているが)であり、交易にも使用していたことである。更に、貝塚形状に大きな差異があることである。又、極海岸に近いので交易対象の製塩も行っていたという。

 今後、貝塚にまつわる研究内容の進展・交流が行われることにより、縄文時代の中身の解明がより進行することを期待したい。

 

 菅原館長は、災害履歴、特に津波についても大きく言及している。災害の歴史は、文字資料や伝承だけではなく、考古学や地形学による研究成果、即ち土地に刻まれた痕跡からも知ることが出来ると述べている。大変興味のあることである。この宮古島では、概ね400年~500年に1回の周期で津波が確認されているという。関東地区の状況についてもこのような地域的な詳細な精度の高い情報が得られることを期待したいものである。

                                 (武 孝夫記)